元新聞記者による辛口コラム・エッセー、イラストと写真です。ご意見ご感想をお気軽にお待ちしています。(記事・画像の無断転載と無断複製・配布を堅く禁じ、万一発見した場合しかるべき処置を取ります)
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ある小規模地方紙の廃刊について思うこと~極私的総括5
 この間、ずいぶんと思い悩んでしまった。本ブログで断片的に掲載している、自分がお世話になった小規模地方紙J新聞の廃刊に関する極私的総括を続けるべきかどうか、についてである。僕はもうJ新聞は歴史的にバッテンを付けられたと考えていたので、復活の動きなどまったく予想していなかった。いや、正確には復活ではなく新たな衣をまとっての再スタートのようだが、作り手のほとんどは逆境にもかかわらず最後まで頑張ったJ新聞の元社員たちなので、何らかの形でマイナスの影響要因になったら困るなあ、と連載を続けるべきかどうか逡巡していた。
 何しろ、極私的な総括とはいえ、注目? される新たなJ新聞の再出発である。経営陣が一新され、新聞の形式も従来とは大きく異なる。詳しいことは分からないが、編集方針も立ち位置も違うようだ。新たな経営者が得意分野としているネット販売とも連動し、大きな「売り」にするらしい。その一方でJ新聞の題字を踏襲しているし、広告・販売の営業スタイルも元J紙方式を踏襲しているとも漏れ聞く(担当者は同じだから仕方ないか)。だから僕としては、結果的に新たなJ新聞の船出に波風を立てるのは本位ではない。できれば(自分の生活や仕事環境が許すなら)背後から支援したいとも考えている。
 そのように随分と悩み抜いた結果、僕は発想をプラス思考に変えることにした。僕の私的総括がもし何らかの形で新J新聞の反面教師の材料となるなら、それはそれで連載することに意義があるのではないか、と。「新しい酒は新しい革袋に盛る」べきだし、そのためにも時代から無効を告知された、零細地方新聞のカビの生えた古い経営理念は潰える運命にあるべきだと、そう考えた。ですから今後も、断片的ながら本連載を触れて続けることにします。
      
 振り返ると僕は奇しくも、その存在の在り方において大きな自己矛盾を内包する今はなきS新聞とJ新聞という極めてユニークな地方の零細新聞に在籍することで、表現者としての自分を高めてきたとの自負がある。改めて冷静・冷徹に自分の足下を振り返ってみると、やはり両新聞とも本質は単なる茨城県内の「地域新聞(紙)」だったと思う。いや、地域紙としてさえも自立できなかった、極めて中途半端な日刊新聞だと総括している。誤解を恐れずに言うなら、J新聞が自立できる可能性や、その方途、タイミングなど、もはや遠い過去の記憶の中にしかないとも言える。ここまできた経済疲弊は、小規模地方紙を存在させる余裕ある要素をすっかり失ってしまった。
 だからS新聞もJ新聞も、もともと新聞としての自立を目指す基礎部数を確立することができず、はったりとも言える誇張した虚飾に満ちた発行部数と点としてしかない普及状況の中で悪戦苦闘し続けた。その中でもJ新聞はうまくフリーペーパー路線に目を向け、脆弱な本紙体制を補完する機能を確立したものだ、当時はとても感心していたものだった。実を言えばS新聞もJ新聞も収益の3部の1はフリーペーパー(S新聞はY紙系列の無料媒体)便りだったことを考えれば、これしかなかったのかもしれない。
 そういう意味で、J新聞よりも約10年前のS新聞の倒産は「J新聞よ、早く目を覚ませ」という貴重なメッセージ(警告?)に思え、僕は以前にそのS新聞で飯を食わしてもらった恩義もあり、J新聞が2003年に新社として生き残ったことの意味をかみしめ、自分なりに再生に向け努力してきたつもりだった。残念ながら、それも報われることなく終わってしまったが‥。
 既に廃刊に追い込まれた旧J新聞だが、当時は僕は自分の位置(編集局のトップ)から問題的の克服を企図し、自分の内部で可能な限りの改革をまとめつつあった。2008年頃から表面化したJ新聞の経営危機問題で社内の混乱が続いたが、その当時でさえ経営スリム化は成功したのだろうか、との思いは強く僕の中にあった。それによって収益が上がるのならともかく、経営陣の「無駄をなくす」とした効率的経営の取り組みは、J新聞が存在するための潤滑油を根こそぎ奪い、社内にぎくしゃくした関係をもたらし、プラスの方向には作用しているとはないように僕には映ったからだった。
 そうして僕は退社を決意するに至り、最後のメッセージとして、以下のような文章を盛り込んだ手紙を何人かの関係者に送った―。
     
 「新しい酒は新しい皮袋に盛れ!」ではありませんが、古いスタイルの器は潰えていく運命だとするなら、僕はもはやその運命に従うべき段階に達したようです。土浦と水戸という拠点の違いはあっても、J新聞もS新聞(手紙では実名)も地域において異彩を放ったのは1970年半ばごろまでだったような気がします。戦後の混乱期から脱し、高度経済成長が臨界点まで登り詰め、消費型の資本主義が歴史の新段階として立ち現れたとき、あらゆる分野で古い皮袋は新しい皮袋に自己変革を促したと感じています。J新聞やS新聞を取り巻く環境からすれば、比喩的になりますが、選挙(中選挙区制が基盤)がカネになり、なんとか食えた幸福? な時代までだったような気がします。(続く)

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