元新聞記者による辛口コラム・エッセー、イラストと写真です。ご意見ご感想をお気軽にお待ちしています。(記事・画像の無断転載と無断複製・配布を堅く禁じ、万一発見した場合しかるべき処置を取ります)
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ダルクは転換期にあるこの国の新たなコミュニティーだ
 各地のダルクフォーラムに出向くと、アディクトたちが「自分たちには12ステップと仲間の存在がある」と話すのをよく目にする。日本人の感覚からすると理解しにくい12ステップ・プログラムについては置くとして、仲間の存在とその強固な絆については僕のような部外者には驚きを隠せない。ボディコミュニケーションが苦手なので、笑顔でのハグ(抱擁)や握手にはちょっぴり戸惑うけれど、失敗しても再びダルクの門を叩けば「お帰り!」と手放しで歓迎する懐の深さは、世知辛いこの国では稀有な人間関係を象徴するシーンに映る▼利害や打算を超えたこの強固な連帯感は、何度も地獄を見てきたという過去の悲惨な体験の共有や、この世の中で一番死に近い場所にいるというダルクに特有なものかもしれない。でも、よくある日本人のウエットな濃密感情とは明らかに違う。もし、一人のアディクト仲間が思いがけず、今日死んだとしても「死に行く仲間もダルクには必要な存在。それをも含めダルクは命のリレーの場なのだ」(近藤恒夫氏)という冷徹な世界観がある。そこに時間と空間を超えるダルクの不思議なビジョンを感じさせる▼周知のようにダルクでは仲間の存在は原則としてアノニマス名で呼ばれる。立場や組織、出自などあらゆる社会的な属性を超えて、徹底した平等性を保障する意味合いが込められているようだ。刑務所のように受刑者が番号で呼ばれるのとは対極にある光景だろう。管理や指導に従順な非人格として扱うのではなく、あくまで一人の人格を持つ存在として遇し、馴れ合いやもたれ合いを排して依存から自立へと促そうとする考え方に基づくものだ▼ところで依存症は「孤独の病」とされる。周囲からの孤立や淋しさがスリップの大きな誘因だけに、同じ病気を抱える者が互いを反面教師にして励まし合う回復のスタイルは、とても理にかなっている。精神科の医師や学者らには手におえなくても、仲間の中でなら回復できるという不思議な治療メカニズムは、外野の僕などにはとても興味深い謎の部分だ。フォーラムでも医師や学者の話より、仲間の体験談の方が会場の参加者の心をとらえ、共感を持って迎えられる▼よくあるまちづくりフォーラムなどとは異なり、ダルクフォーラムでは「よそいきの顔」がないのがいい。初めの頃は当事者や家族が、よくここまで赤裸々に自分たちのことを語れるなあ、と驚いたものだ。そこに至るには人知れず大変な苦労があったはずだが、ダルクや自助グループで場数を踏み、鍛えられてきた経験は重い。何よりも仲間が大勢いる場所だからこそ本音で語れるに違いない。同じ釜の飯を食ってきた仲間の前では格好つけようがないし、体裁を取り繕ったところですぐに底割れしてしまう▼昨日入寮したての新しい仲間もクリーンタイムの長い責任者も、ダルクでは回復を目指す同じ立場の人間だ。ダルクに何年いたから、役職についているから偉い訳ではない。クリーンが長いから「もう大丈夫」という保障もない。全てのアディクトが回復途上であり、日々「今日一日」の実践をひたすら積み上げるしかない。いわば毎日が綱渡りで、危ういバランスの上で成り立っているからこそ、ダルクは潰れることがないのだろう。この逆説を近藤さんは「古い一軒家、それに恨みとコーヒーカップさえあればどこでもダルクはできる」と言い当てる▼それに「ダルクには肩書など要らないし、カリスマも必要ない」(近藤さん)のも面白い。ダルクは当事者による自助活動だから偉い人は必要ないし、カリスマなど邪魔なだけだ。メジャーになる必要も、メディア受けを狙ってムーブメント(潮流)を目指す必要もない。社会的な局所で、人知れず地道な回復支援の活動を続けること。だからダルクには解釈や意味付けはいらない。外側からの善意の理解だって、もしかしたら当事者には余計なお世話かもしれない▼その事を承知の上で、あえて自己矛盾をのみ込んで言わせてもらえば、ダルクは崩れゆく家族や地域のコミュニティーに代わる新たな疑似家族的なコミュニティーとして、転換期のこの国に登場しているように僕には思える。
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