元新聞記者による辛口コラム・エッセー、イラストと写真です。ご意見ご感想をお気軽にお待ちしています。(記事・画像の無断転載と無断複製・配布を堅く禁じ、万一発見した場合しかるべき処置を取ります)
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コンビニで感じた違和感からダルクの今を見る その二
 これで思い当るのは、初期ダルクのエピソードだ。近藤恒夫さんによれば「ダルクに細かい規則はほとんど無意味。破られるのがオチだから」(「薬物依存を超えて」)という。規則を破る猛者ばかりの仲間に手こずった経験から、近藤さんは彼らを規則で縛ることの無意味さを悟る。むしろ、仲間を規則でコントロールするのを止め自分自身のケアに専念したところ、不思議なことに施設内が落ち着き、回復者が現れたという。僕はここにヒエラルキーを無化する治療共同体の根源的な力を見る。当時の入寮者はせいぜい10人足らずで、強固な仲間意識と濃密な人間関係を築けた背景があったとしても、だ。
 しかし苦節30年、最近のダルクは少し事情が変わってきたようだ。ダルクも世間に認知されるようになり、「入口」につながるアンテナが格段に増えた。何よりも福祉行政の恩恵を受け易くなったことで、ダルクで安全・安心に回復プログラムに取り組めるようになった。その半面で、入寮者が多様化して依存症とのグレーゾーンに位置する人たちが増えた。主観的ながら規範意識の問題で言えば、任侠道で鍛えられ法の支配に対して反骨資質のある者や、刑務所を何度も往復してきた受刑者、社会に居場所がなく長く路上生活を強いられたホームレス出身者ら、もともと規範意識が低く決まりを守るのが苦手な人たちが増えた印象を抱く。
 さて冒頭のコンビニの話に戻ろう。人を見た目で判断してはいけないとはいうものの、本音を言えば見た目で判断しているのが世の常だろう。もっと言えば、耳に心地よい「個性尊重」の言葉とは裏腹に、この国では依然として横並び意識が強く、「出る杭は打たれる」のがオチだ。今もって、金子みすゞの詩のように「みんなちがって、みんないい」とはならない。だから、ダルクの人たちが街中のコンビニに集団で居ても、何ら違和感のない“自然な風景”となるにはクリアすべき課題が多く、まだまだ時間がかかるだろう。でも、危うくなった社会に危うい存在がいることは、どこか“救い”のように僕には思えるのだ。やはり僕はダルクに身びいき過ぎるのだろうか。

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コンビニで感じた違和感からダルクの今を見る その1
 長いことダルクの人たちと付き合っているので、比較的ダルクに対する偏見は少ないつもりだ。でも、ふだん何気ない場面で、ダルクに対して厳しい視線を向ける世間の目に、自分も“同調”してしまうことがある。例えば、コンビニ駐車場でダルクの仲間たちが集団で休憩し、喫煙している風景に出くわした時などだ。数人なら過敏に反応することはないが、ダルクのメンバーが集団(感覚的には5、6人以上ぐらいか)になると、明らかに周囲とは異なる雰囲気を感じてしまう。不可避に「非日常の異空間」がそこに生じてしまうのだ。なぜだろう?
 一昔前、よく深夜のコンビニ駐車場でこれと同じような光景を目にした。それは険しい顔つきの不良少年たちが、やはり喫煙しながら「ヤンキー座り」でたむろしている場面だった。ダルクの人たちとは質が異なるものの、ある種の不快感というか軽い恐怖を覚えたことを思い出した。集団の威圧感も手伝い、他の客の入りに影響を及ぼしているのは確かで、店の従業員も心なしか顔をしかめていた。でも、彼らだって客でもある。ほぼ同年代と思われる若い店員は、勇気を持って注意できない様子だった

 同じように集団化したダルクメンバーに対しては、やはり店側からすれば厳しい視線が禁じえないはずだ。最近、あるダルク施設が近所のコンビニに「出入り禁止」処分となった。聞けば、度重なる仲間の万引き行為(品物は主にアルコール類だった)に経営者が業を煮やしたからだという。コンビニ同士で連絡を取り合っているようで、通りにある他のコンビニでもダルクメンバーが入店すると、店員が警戒の目を凝らすようになり、あからさまに「おたく、ダルクさんですよね」と念を押されるようになったとも聞く
 
 ここには依存症の回復の在り方について、とても難しい問題が横たわっている。万引きは薬物やアルコール依存症の顕著な探索行動の一つとされる。病気が本質だとしても、法を犯す窃盗犯罪には違いない。一度ならともかく度重なれば、このコンビニ店のケースではないが警察沙汰になり、当然ながら罰せられることになる。これを乗り越えるには、地道に回復プログラムに取り組み、自分の病気である依存症を克服していく以外にない。そのため、各ダルクではいろんな生活の各場面で工夫を凝らし、集団生活を通して粘り強く規範意識を育てる習慣を仲間たちに形成しようと努力している

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続く
ダメな社会だからこそダルクに救いがある
 ダルクは依存症先進国の欧米に普及している治療共同体(TC)がモデルとされる。日本の医療風土ではなじみが薄いけれど、精神科医療が長く匙を投げてきたアルコールや薬物依存症者の治療では、TCの運動がそれなりに効果を発揮している。残念ながら僕の貧しい理解ではTCをうまく説明できないが、ストレスの多い現代社会において、いわゆる「心の病」の専門家たちとは異なる地平で、依存症以外の分野でも少しずつTCの運動が浸透しつつある。静かなムーブメントとなって支持されているようだ▼TCの不思議な治療メカニズムについての話は別の機会に譲るとして、ダルクはTCの基本原理を骨格にして成立する。同じ原理ながらも、自助(相互援助)グループのAAやNAとは異なる社会との中間施設である。あくまで依存症の治療・回復を支援する民間の通過施設であって、生涯にわたって利用者がそこに留まる施設ではない。一定の回復を経て社会復帰を目指す施設でもある。でも実際には、社会の受け入れ体制の未整備や、地域における依存症の理解遅れと相変わらず根強い偏見によって、ダルク内での滞留化が加速して社会復帰が建前と化している印象がぬぐえない▼とはいえ、依存症者が社会に復帰するとはどういうことなのだろう? 胸を張って存在を誇示することはできないとしても、ダルクだって社会の一員だ。薬物乱用防止の学校講演会や病院、刑務所へのメッセージ活動などで、ダルクのメンバーが自分たちの過去の経験を生かして、それなりに社会貢献している。でも、どうやら世間が求める社会復帰のイメージは、その程度では不満のようだ。現在のように多くが生活保護に頼るのではなく、きちんと地域で働いて自立した生活を送り、やがては納税者として国を支える段階になって一人前、というビジョンのようだ▼そこで、次に問われるのが「働く」ということ。依存症者がダルクで一定の回復をしても、現下の厳しい就労環境の下ではハローワークに行っても、まず仕事に就くことは困難だ。世間の“常識”からは「不景気で健常者の一般就労さえ難しいのに、ヤク中やアル中に仕事なんてあるはずがない」となる。ましてや「自分は依存症です」と正直にカミングアウトすれば、紹介先企業で面接に漕ぎつけてもます100%拒絶されるだろう。現状では「障害者枠でなら就労の可能性はある」(ハローワーク)というように、かろうじて福祉的な就労枠に収まるしかないようだ▼もっとも、ダルクをつくった近藤恒夫さんは「ダルクはハローワークではない」と言い切る。「仕事をしたければ、あくまで自分で見つけること。ダルクは仕事の紹介はしない。なぜなら失敗(スリップ)した時の言い訳に使われるから。ダルクの紹介で行ったのに賃金は安いし仕事もきついと、必ず自分を棚に上げて言い訳に使われる」と。そのために施設内で様々な役割を与えたり、ミーティング場に自力で行かせるなど生活自立訓練をプログラムに加えて工夫している▼でも、その程度では就労への意欲喚起や動機付けには結び付かないのもダルクの悲しい現実だ。そこで各種の助成を得たりして自助努力により、主に農業を中心とした特産品開発や自前の農場整備に力を入れるダルクも現れている。独自にラーメン屋やレストランに挑戦しているケースも散見される。それら個別の取り組み状況は分からないが、いずれも厳しい社会環境の下で何とか活路を見出そうと、ダルクの真骨頂である当事者主義の秘めたるマンパワーを生かしていることは確かだ▼相変わらず日本では「(男は)働いてこそ一人前」「働かざる者食うべからず」との風潮が根強い。でも、その一方で、巷には何をしているのか分からないけど、一家言持つ遊び人風の反骨おやじや、博識があり子供たちに妙に慕われた趣味人がいた。昔は世間の目が粗く、こうした“落ちこぼれ”的な人生を「必要悪」のように反面教師として認めていた。でも今は社会がぎすぎすして余裕をなくし、すっかり世知辛くなって「余計者」の存在を許さなくなった。ダルクが日陰者なのはいいとして、急速に息苦しさが増しているダメな社会だからこそ、ダメな人たちがいることは救いなのに…。
ダルク共通の課題「老い」をどう生き抜くか
いつの間にか年金をもらえる年代になった。訳あって定年前に勤め先を早期退社し、おまけに若い頃のやんちゃがたたって未払いの空白期間があり、手にできるのは基準額よりかなり低い。それに子供がまだ大学生なので、あと数年は頑張って働かなければならない。寄る年波に「老い」を意識しながらも、現役であることを強いられる身の悲しさよ…と、独り言(ご)ちる場面が増えた。これも身から出た錆、自己責任として引き受けるしかない▼ご多分に漏れず高齢化の波が押し寄せ、老後をどうしたら意義あるものとして生き抜くかは、ダルク共通の課題として浮上している。日本ダルク代表の近藤恒夫さんはフォーラムなどの場面で「片足を棺桶に突っ込んでいるヤク中は薬物をやめなくてもいい」と冗談交じりに話す。近藤さん一流の逆説というか、含蓄のある言い方だが、あながち否定できないように思う。家族も仕事も何もかも失った高齢依存症者が薬物依存でかろうじて生きながらえているなら、「もう頑張らなくてもいい」と助言したくなるのも人情だろう。でも、依存症の当事者にとっては人生の幕引きはクスリなしで終えたい、やはり最後は人間らしく人生を閉じたい、との願いは切実だ▼ダルク30年の歴史の中で経験したことがない高齢化にどう対応するかは、どこのダルクでも頭を抱える深刻な問題として浮上している。若ければ回復の可能性も希望も抱きやすいだろうが、長年にわたる依存症による精神や身体への後遺症、認知症や内臓疾患、身体機能の低下による車いす生活…などになった高齢の依存症者を、高齢者介護のノウハウがないダルクはどこまで引き受けられるのだろうか。そこまで行かなくても、もはやどこにも行き場がなくなりダルクが終の棲家となっている現状で、高齢依存症者の残りの人生をどう意義あるものとして保障していけるのだろうか▼原点を確認するなら、ダルクの役割は入所にしろ、あるいは通所にしろ、安全安心に薬物(アルコール、ギャンブルなども)をやめ続けることの訓練をする場の提供であり、当事者を地域の相互援助グループ(NAやAA)につなげることにある。さらに生活自立訓練がこれに加わる。各種デイケア活動への参加や買い物、掃除、食事作り、犬の散歩など施設から与えられた日課や任務を遂行することで、少しずつ社会復帰への条件を整えていく。これらの活動の下支えが、依存症者の内面を変えて人間として成長させる魔法の杖とも言うべき回復プログラム(主に12ステップ)とグループミーティング、そして仲間の存在ということになる▼もっとも、依存症者を取り巻く現実は依然として厳しく、こうした回復活動を担っても長引く景気低迷と、相変わらず依存症(とりわけ薬物依存症)に対する地域の誤解と偏見の根強い中では、ダルクのプログラムを修了しても一般就労は絶望的なほど困難だ。勢い社会復帰の壁は厚く、ダルクが標榜する社会との中間施設としての役割はなかなか果たせない。むしろ、社会に出られない分、ダルクの数は全国に関連施設を含めると80数カ所にまで増え、ダルク間を移動する“ダルクツアー”組が多くなっている。おまけに基本活動のプログラムへの取り組みさえままならない高齢者問題である▼人間老いれば、どこかしら身体も精神機能も衰え、おかしくなっていくのは自然なはずなのだが、よほど人生を達観しているならともかく、凡人はなかなか素直に自分の「老い」を受け入れがたい。むしろ昨今の商業主義的な健康信仰の押しつけやアンチエイジングの礼賛に踊らされ、手放しで「若さ」に価値があると思わされていると、「老い」に抗うことに気をとられて肝心な「老い」を生きることの意味を見失いがちだ。一般社会でさえそうなのだから、依存によって比較的「老い」が早く訪れる人たちの割合が高いダルクにおいてはなおさらである▼「老い」をどう充実させ、残りの人生をどう意義あるものとするか―ダルクで生活する高齢者は、少なくとも飢えることからは免れている。なんといっても国丸抱えの「生活保護便り」だから最低限の衣食住、それに医療費も国で賄われる。それに比べ当方は、それなりに頑張って働いてきたのに年金は当てにできず、この後も働き続けなければならない。今更ながら人生の悲哀を感じながらも、どこか面白くない感情が残る。
茨城ダルクが22周年フォーラムを開催/力量ある和太鼓演奏のステージに会場沸く/仲間の話に危険ドラッグ(脱法ハーブ)の影響が色濃く
茨城ダルク(茨城県結城市上山川)の第22回フォーラム「~病院とダルクの関わり~」が7月13日、結城市の結城市文化センター「アクロス」小ホールで開かれ、各地からダルクの仲間や支援者ら延べ約500人が参加して大いに盛り上がり、依存症からの回復の可能性と希望のメッセージを受け取りました。今回は『仲間のすがた』をテーマに、茨城ダルクや応援の富山ダルクによる勇壮な和太鼓演奏があり、参加者を楽しませてくれました。茨城ダルクで練習を積み、その後全国のダルクで回復プログラムの一環として受け継がれている和太鼓の演奏などがフィーチャーされ、ダルクの仲間たちがステージ上で見事な演奏を繰り広げました。このほか、フォーラムでは入寮中の仲間や家族、識者らの発言に加え、茨城ダルクには欠かせない茨城県立こころの医療センター(旧県立友部病院)の依存症病棟のスタッフによる「依存症の今」についての解説があり、フォーラムに厚みを加えました。また大きな社会問題となり、連日にようにメディアで報道される深刻な脱法ドラッグ(国は「危険ドラック」の呼称に決定)問題に対しては、厳罰化だけでなく依存症という問題の本質からとらえ直す必要性が浮き彫りにされ、改めてダルクの存在意義を確認できたフォーラムとなりました。

 茨城ダルクはダルクの初期段階、1992年に全国4番目のダルクとして周囲に水田や畑が広がる同地に開所しました。若い頃から任侠道に生きながらも長く覚醒剤依存に苦しんだ経験を持つ異色のリーダー、岩井喜代仁代表が施設を切り盛りし、文字通り徒手空拳で困難な状況に風穴を開けてきました。多くの回復者を輩出し、医療や保健衛生、福祉など幅広く行政機関などにアタックする一方、早くから家族会を立ち上げて連携を深め、潜在する地域の依存症当事者や家族に「回復できる病気」のメッセージを浸透させました。その活躍は地元はもとよりダルク未設置だった東北や北陸、山陽山陰地方にまで影響を拡大、若い回復者を次世代リーダーに育て上げて施設長に就任させ、日本ダルクの近藤恒夫さんとともにダルクの存在を「全国区」にまで高めました。また、今も潜在的に入寮希望の多い女性専用のダルク施設を立ち上げたほか、旧友部病院とは医療連携による役割分担ともいえる独自の治療・回復スタイル(茨城方式)を早くから定着させるなど精力的な活動を展開してきました。フォーラムは設立当初から取り組まれており、入寮者の回復の様子が太鼓演奏を柱とする多様な企画内容と、岩井代表の交友関係の広さが伺い知れる幅広い支援者や依存症の専門家らの講演などで構成され、毎年7月に開かれています。

県立こころの医療センターも医療現場の治療実態を報告
 この日のフォーラムでは、スタート時の午前10時には各地のダルクの仲間をはじめ支援者、仲間の家族、地元議員や行政関係者、医療関係者らが大勢集い合い、早くも会場に設置される席では座りきれないほどの賑わいを見せました。まず来賓として茨城県筑西保健所長、筑西きぬロータリークラブ会長があいさつした後、茨城ダルクの「愛泉太鼓」のルーツとなる愛染童子太鼓を、むつみ愛染幼稚園(栃木県下野市)の園児たちが演奏してくれました。愛染童子太鼓は全国大会にも出場経験があります。全身を使った瑞々しいエネルギーにあふれる、園児とは思えないほどの力強いバチさばきで会場を魅了しました。
 続く仲間の話では茨城ダルクで回復を目指す男性入寮者、栃木県に位置する女性専用施設の女性の仲間たちがメッセージを語ってくれました。今年ハワイで開催された、世界から薬物依存症の仲間が集うギャザリングに茨城ダルクを代表して参加したハジメさんが自らの経験を語りました。午前の部の締め括りには茨城ダルクの姉妹ダルクともいえる富山ダルクの岩瀬太鼓「海岸組」のハイレベルな和太鼓演奏が披露され、昼食・休憩に入りました。
 午後は女性シェルターのメンバーによるエイサー(琉球太鼓)でスタートしました。この後、茨城県内における精神科医療の草分けであり、薬物依存症の治療では先進的な「茨城モデル」として、全国的に注目されている県立こころの医療センターの発表では、ふだんは伺い知れない病院内の様子が職員スタッフによって紹介され、注目を集めました。精神科医と協力しながら依存症治療に当たるプロジェクトDのスタッフの方々が、院内の様子などについてパワーポイントを使いながら写真やグラフの詳しいデータを活用して紹介し、参加者の理解を助けました。
この日の発表では、診察に訪れる患者や入院する患者がどのような薬物による問題を抱えているかについても解説し、2009年からの初診、再診の数字からいずれも年々増加していることが報告されました。認知行動療法を用いて開発された外来治療アプローチ「Matrix Model(マトリックスモデル)」を参考にして作られ、薬物依存症への理解を促し、仲間と新しい生き方を獲得する方途を提供するワークショップ「SMARPP(スマープ)」治療プログラムを開始した2011年からは、薬物問題での再診患者が急増しているとのことです。2011年(初診者44人、再診者209人)が、2013年(初診者83人、再診者557人)におよそ2倍に増加し、入院患者も2013年には過去最高(114人)に上ることが紹介されました。
その一方で、「危険ドラッグ」であるハーブ使用での来院者も覚せい剤に次いで多くなり、ハーブを使用した47.8%が大麻を使用するデータも明らかにしました。ハーブを主とする「危険ドラッグ」について担当者は「症状が重すぎる方もいて、ハーブの問題の広がりもあり急激に増加している」と述べ、薬理作用や人体への影響が全く分からない“人体実験薬物”ともいえる「危険ドラッグ」の広がりに警鐘を鳴らしました。

「法律は人を悪化させるものでない」と近藤代表
 この後フォーラムのメーンスピーカー、日本ダルク本部の近藤恒夫代表がゲストとして講演しました。近藤さんは相変わらず薬物依存症という病を持つ“患者”を刑務所に押し込んで、様々な環境を破壊して、回復に決して通じさせない警察・司法制度のあり方の見直しを訴えました。
 「警察に逮捕され、起訴されてしまっては何もできない。起訴されるまでに例えば2回つかまっても反省していれば起訴猶予して治療に向かわせてければならない」と強調。「刑務所に行けば仕事も、家族も、その後の社会復帰の可能性さえ奪いかねないのに、この国では治療もしない状態で刑務所から放り出す。結果、生活保護で悲惨な人生をたどる。法律は人間を悪化させるものではないはず。国は回復させずに刑務所から出所させ、会社は解雇して放り出す。そのような体制で本当に責任をとったことになっているのだろか?」と来場者に問い掛けました。
そして近年訴え続けている、「薬物事犯者に対して、初犯には“辛く”、再犯には“甘く”」の政策転換を主張。「1回使ったらまた使ってしまうのは薬物依存症という病。今は初犯には執行猶予がついてしまうが、初犯のときこそ厳しい保護観察をつけるべき。刑務所に入所する数が少なくなれば保護観察も刑務所も手伝える」とし、「地域でやれることはやりましょう。みんながその気になればできる。回復は(依存症と)付き合い続けることです」とダルクの活動の意義と依存症への理解を求めました。

岩井代表も仲間の死で「自分が正しいのか?」と苦悩
 茨城ダルクフォーラムの特長は講話や講演だけでなく、ハイレベルな和太鼓の競演です。しかも最近はプロローグの演出が凝っています。昨年のプロレスに次いで、今年はアニメ「新世紀エヴァンゲリヲン」をテーマに、茨城ダルクの太鼓グループ『喜組』のメンバーの日ごろの練習風景やメンバーを紹介するビデオがスクリーンに流され、会場から期待の拍手を受けました。スポットライトに鮮やかに照らされ、メンバーが被っていたお面を脱ぎ捨てるシーンなどショー的な要素も加え、日頃の練習の成果をいかんなく発揮して数多くの見せ場をつくりました。激しく全身を使い、汗をほとばしらせながら統一と調和、繊細さと大胆さを併せ持つ勇壮な演奏に、会場は興奮に包まれました。ステージで熱演する仲間のご家族や友人らは、太鼓演奏を通じたメンバーの力強い回復の姿に瞳を潤ませながらカメラのシャッターを押す光景があちこちで見られました。
 仲間たちの素晴らしい太鼓演奏を経て、最後に岩井代表が講話に立ち、今回は様々な苦しみと葛藤を経たフォーラムであったことを冒頭に明かしました。岩井さんは「(太鼓演奏前のビデオの)メンバーで映っている仲間でもう亡くなっている人もいる。1週間前にハーブを使用して電車に飛び込んだ仲間だ」と危険ドラッグと名称変更された脱法ドラッグ(ハーブ)使用による仲間の急逝を悼みながら、「(国が)脱法ハーブの名前を変えようとか言っている(注:フォーラム時点では名称変更はされていません)。そんなにのんびりしていて、いいのか? ハーブそのものではなく、そこに含まれている薬品が悪い。その薬品名をすべて挙げろ、と俺は言っている!」と半ば怒りを交えて強く訴えました。
「ハーブの問題は根が深い。警察が対応できない理由には、事件のあと容疑者を逮捕して48時間以内に逮捕状をとらなくてはならないのに、その間にハーブをやっている人間は警察の誘導でしか動けないような状態で、ちゃんとした証言をとることが難しい」とも説明。ハーブを原因にした仲間の一人で、岩井さんの下で長く回復活動を続けてきた仲間が、ケータイゲームの借金を苦に自殺してしまったことを受け、「この時ばかりは俺も“自分のプログラムが本当に正しいのか”と深く思いつめた。“皆さんからお子さんを取り上げることが本当にいいことなのか?”、“家族とともに回復することができたのだろうか?”と。それなのに一部からは“なぜあんな無茶をしたんだ”“だから死んだんだ”と言われ、責められる。俺はどっちを向いていいのか分からなくなった」と率直な心境を明かしました。そして会場に集まった家族、ダルクの仲間たち全員に向けて「どうか死ぬことは一番つらく悲しいことで、(周囲や仲間に)迷惑を掛ける行いであることを分かってほしい」と極限の自己処罰行為がもたらす不幸と悲惨を強く訴えました。
その上で「今回どんなフォーラムにすべきか迷った。で、みんなで話し合って“やるならば楽しくいこうや!”と太鼓のオンパレードにした。この太鼓を叩くメンバーもいつ死ぬか分からない。それが薬物依存の現実。(開所から)22年間がたつが、ダルクを出たり入ったり続ける仲間を見ると、それがいいことなのかもしれない」とも話し、世間の見方はどうあれ仲間たちが各地にダルクがあることで命をつないでいる現実の重さを語りました。以前に比べると全国にダルクがつくられて回復の場は格段に増えたものの、岩井さんは依然としてダルクは「死に一番近い場所」であることを示唆しました。岩井さんが主催者としての講話を終えると会場から温かい拍手が沸き、新たな「今日一日」に向けた希望を会場全体で祈念していました。

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本音のコラム/アメリカ映画「黄金の腕」に見る依存症文化の厚み
 薬物依存をテーマにしたアメリカ映画に、「黄金の腕」(1955年、オットー・プレミンジャー監督)という作品がある。同名小説の映画化で、薬物依存症者が再起を目指すものの誘惑に負け、人生に絶望する姿を描いた社会派ドラマだ。主演のフランク・シナトラが禁断症状に苦しむ麻薬中毒者を熱演している。エリノア・パーカー、キム・ノヴァクら往年の洋画ファンには懐かしい女優陣が共演している。初めて映画音楽にモダン・ジャズが本格的に取り入れられた先駆けの作品としても評価を受けた。当時としては珍しく真正面から薬物依存問題を扱い、完成度が高い依存症問題の古典作品といえるだろう。そのストーリーは――▼"黄金の腕"の異名をとる名うてのポーカー賭博ディーラーの主人公(シナトラ)は、治療施設で6カ月の療養生活を終え、車いす生活の妻(パーカー)が待つ故郷の町に戻ってきた。依存症を克服してジャズドラマーとして新しい人生を目指そうとするが、彼を引き留めようとして妻や売人らが足を引っ張る。その結果、またクスリ(ヘロインか?)と賭博生活に舞い戻り、ドラマーへの道も閉ざされていく。それを必死で救うのが、彼に好意を抱く酒場女(ノヴァク)だ。物語は妻の自殺という悲しい結末によって愛のない結婚に終止符が打たれ、クスリや賭博から自由になり、主人公の殺人容疑も晴れ、絡み合った問題が解決に向かう…▼僕が気にいったのは、この映画の人間理解に対する深い洞察だ。題名の「黄金の腕」は依存症治療の一貫で覚えたドラマーとしての手腕と、カード賭博の札うちの凄腕、クスリを打つ悪魔の腕の3つを暗示している。映画ではこれに3つの「愛」を対照させている。主人公は自らの飲酒運転による事故で妻を半身不随にしたと思い込み、重い責任を感じている。彼は懸命に妻に寄り添うことが愛だと思っている。しかし、妻は既に治っており、彼をつなぎとめようと車いす生活を演じる。心がすっかり荒れている妻は、事あるごとに彼に毒づく。これは偽りの愛だ。これとは対照的に天使のような酒場女が彼に献身的な愛を捧げる。ここにあるのはプラトニックな純愛だ。これらを薬物問題に絡ませることで一層、人間の内面の複雑さを掘り下げている▼それにしても依存症治療の先進国アメリカである。今から60年近くも前に、この問題を映画化しているのだから驚く。(公的)治療施設から戻って古巣に戻った主人公は友人や地元の人たちに回復の努力を称えられ、温かく迎えられる。現実には、たった半年の治療で回復の歩みは難しいと思われるが、そこは物語としての映画作品。依存症に対するアメリカ文化の厚みを感じさせる。「1回でもやれば元に戻ってしまう」「同じ環境に戻れば、またヤクに手を出すだろう」「クスリに手を出した人間には心に弱さを抱えている」「人間は誰でも何かにすがっていないと生きていけない」「最後の1回は永遠に続く」―など各場面の名セリフに依存症の本質がうたわれている▼何やら今回は映画批評みたいになってしまったが、では翻って我が日本ではどうか。昨年夏頃から「シャブ&ASKA」などと週刊誌で盛んに書きたてられたミュージシャン、ASKA容疑者が覚醒剤取締法違反容疑で逮捕された事件は例によってメディアの過熱報道が続いた。のりピー(酒井法子)の時もそうだったが、有名芸能人による薬物絡みの事件はニュース番組だけでなくワイドショーにとって格好のネタになる。でも、ダルクサポーターからすれば、社会正義を盾にこれでもかと襲い掛かる報道姿勢にはうんざりだ。ASKA事件を語るには一言で足りる。「薬物は人を選ばない。社長であろうとホームレスであろうと、薬物と出合ったことが不幸なのだ」(日本ダルクの近藤恒夫さん)と。もはや立派? な薬物依存症のASKA容疑者がもうすこし早い段階でダルクにつながっていれば、と悔しい気がする▼法治国家において刑事責任が問われるのは当然だとしても、ダルクのスタンスからは単純自己使用には刑事罰を与える以上に福祉医療のケアを優先させるべき、となる。この映画のように、米国では有名人が薬物問題でつまづいても治療施設で回復し社会復帰すれば、その努力を歓迎する風土が根付いている。世知辛いことに日本では、社会防衛を盾に落伍者のレッテルを張って終わり。異端者扱いし、後の更正は自己責任だとして治療せずに地域に放り出す。失敗を許さない社会風潮にあって、人気商売の芸能人であればなおさら"落伍者たち"が集うダルクにつながることは難しい。この国では芸能人向けのダルクは夢のまた夢なのか。
本ブログ再開への空しい決意~何度かワールドカップを話題にします
 またもや本ブログ記事の更新が途切れてしまい、だいぶ間が空いてしまった。(もともと少ない読者だけど…)もうやめたのだろうと思った方がほとんどではないかと思う。予想に反して、どっこい本ブログは生きてます。とはいえペースダウンは否めません。以前のように記事が書けなくなりました。いつの間にかもうすぐ年金をもらうような年齢になり、心身ともにガタがきて、人間的にもだめになりました。
 言い訳がましいですが、なにやかにやと見過ぎ世過ぎの現実は重たく、結構忙しい家の雑事処理に加え、性格なのか落ち込みがちの精神状態、何よりも以前に比べ顕著になった世間の出来事に対する問題意識の希薄化と、文章を書くことへの意欲の減衰が激しい。結果、時間ばかりが経過してしまったのです。
 さて、若い頃に比べ物事や人間に対する感性の磨滅は否定できないとしても、いやしくも零細地方紙の新聞記者をしていたのだから、日々の事件事故に対する反応がないわけではない。とりわけ自分が住む生活圏のことについては小さな話題でも目が向く。でも、困ったことに、それが刺激になって何事かを書こうという脳みその言語領域まで、それらの刺激が達しないのです。
 それだから以前のように毎朝配達される新聞(我が家は一貫して毎日新聞を愛読)を隅から隅まで「読みまくる」根性がうせてしまった。見出しを読んで分かったつもりになることも多い。あえて何かを書こうとすると、自分の過去の思い出のような、どうでもいいような話ばかりになる。よく引退した先輩記者が郷土史家に転身するケースがあるが、今になってそれが分かるような気がする。
 まあ、老いとともにそうした流れも自分にとっては自然の成り行きなのだ。ただ、怠惰を口実に開き直ることだけはせずに、それを肯定しつつ「できる範囲」で書いていくつもりです。何やら前口上が長くなったが、来月は4年に一度のサッカー・ワールドカップ、ブラジル大会が始まる。サッカー、特にワールドカップについては一家言持つ身? と勝手に思い込んでいるので、これから何度かにわたってサッカーやワールドカップについての話題を書いていこうと思います。
 ということで、まずは昨日のワールドカップ・ブラジル大会の国内壮行試合、日本とキプロス戦について。1―0というスコアはおくとして、消化不良のゲーム内容でしたね。親善試合なのはもちろん、ある種お祭り気分で盛り上げを図ろうという狙いなのは分かるけど、中継したテレビの解説者や関係者らが盛んに、直前まで合宿をやっていたのでコンディションは最悪とか言い訳がましく弁護? していましたが、あのゲーム内容はないだろうと思う。体のキレよりも頭のキレを見たいなどと、ザッケローニ監督は指摘していたが、疲労からか頭の面でもクレバーと思えるプレーは少なかったように素人には思えました。
 まあ、選手たちがブラジルでの本番に向けて、けがをしないことは大事だとしても、金を払ってわざわざ埼玉サッカー場まで来てくれたお客さんに対して対して、プロなのだから対価に見合うだけのパフォーマンスは見せてほしかった。それにメディアの論調はもっと厳しくてもいいんじゃないか。どうも、この国のメディアはサッカーに限らずことスポーツに対しては大甘というか、どことなく浪花節的な視点と、ゲームの中身そのものよりも周辺の話題ばかりに目が向き、「木を見て森を見ず」の傾向を感じます。
本音のコラム~喫煙に寛容なダルクがはらむ世間との矛盾
 愛煙家には世間の風当たりは強くなるばかりだが、ダルクやその関連施設、薬物依存症の自助(相互援助)グループでは比較的、喫煙については緩やかな態度が取られている。依存症の「回復」がある種の依存の置き換えだとするなら、ヘビーな依存対象から比較的身体ダメージの少ない依存対象へと標的移動することで、依存症の当事者が“救われている”現実は無視できない。ここには意志論や健康信仰が根強い世間の風潮では推し量れない、依存症独自の世界観が横たわっているように思う▼よくダルクや自助グループミーティングに参加すると、喫煙に立つ仲間たちがやたらに多いことに気づく。慣れてしまえばなんということはないが、外部の人間には「なんともこらえ性のない人たちなんだ」という印象がぬぐえないのではないか。依存症の当事者側からすれば、喫煙問題は別に気にもとめない当たり前の日常風景なのかもしれないが、外部(施設外)ミーティングに充てる会場は多くが公共施設やキリスト教会なので禁煙が義務づけられているし、ダルクでも最近は分煙化が意識されるようになったから、愛煙家仲間たちも指定された喫煙場所に出向くことになっている。ここまではよしとしよう▼問題はダルク施設で暮らす、喫煙習慣のない当事者や気管支の弱い非喫煙者、タバコに弱い常勤支援職の健康被害をどう防ぐか、だろう。大げさになるが、彼らの健康についての人権をどう守るかについて、これまで各地のダルクは真正面からは論じてこなかったように思う。そんな折り、先日あるダルク関連施設から送られてきたニュースレターの記事が目に止まった。そこには支援職の立場からする、依存症者の喫煙問題に対する深刻な悩みが掲載されていた。僕も長いことダルクを支援しているが、実はこの喫煙問題に対するダルクの寛容さというか、必要悪のように是認する態度をどう考えたらいいのだろうと考えあぐんできたので、とても共感を持って読ませてもらった▼問題提起した支援職の人によれば、その施設では移動中の車内禁煙や喫煙の際には周囲の同意を得るなど一応のルールは決めたものの、それらはことごとく破られてしまい、結果的には副流煙による深刻な健康被害にさらされているようだ。ただ、その支援職の人はダルクの真骨頂であるフレキシブルで「いい加減」な施設運営の持つ重要な意味合いは十分に承知しているようで、「酒やドラッグを我慢しているのだからタバコぐらいは自由に」という考え方は否定できないとしている。その上で、自分の健康被害と日々向き合いながら困難な現場から逃げ出さず、喫煙問題を放棄せずに考え続けているという▼世間一般の常識からすれば、この問題の対応はそう難しいことではない。当事者側に分煙への配慮を求め、禁煙場所でのルール遵守を徹底させればいいだけの話だ。しかし、そこは世間の常識が通じないダルクという特殊社会。しかも当事者たちは規則や決まりを守ることが苦手で、ひときわ遵法意識が弱いときている。依存症による結果とはいえ、法を犯して刑務所暮らしの経験者も多い。そうした人たちが多数派を形成する異色の空間だから、「ルールは破られるためにある」ぐらいの感覚なのかもしれない。だから圧倒的に少数派である支援職の人が、いくら正論を振りかざしても通じず、無力感にさいなまれることになる▼でも、ダルクは社会との中間施設であり、その目的は依存症の回復と社会復帰にある。将来ビジョンには仕事に就いて自立した生活を営むという姿勢も視野にあるはずだ。だとするなら、基本は当事者主義による自主運営だとしても、世間の空気を無視していてはますます孤立化するだけではないのか。自分たちだけの空間で生活が完結しているだけならいいが、一歩社会に出れば依存症への理解はともかく、喫煙についてのルールさえ守れない人間を雇う企業はまずないだろうし、自分勝手な態度で終始していたら世間からますます相手にされなくなる。少なくとも喫煙問題については、愛煙家仲間たちがダルク内少数派の人権にも配慮し、そろそろ世間の風潮や空気を受け入れる度量ある態度と忍耐力が求められると思う。

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ある小規模地方紙の廃刊について思うこと~極私的総括6
 早いもので僕が、昨年8月末で倒産し廃刊した旧J新聞に足を洗ってから5年が過ぎた。僕の退社後もしぶとく命をつないだものの、J新聞は昨年8月末で幕を引いた。しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、救世主となるIT関連企業の有力経営者の登場で今年2月に新生・J新聞が正式に産声を上げた。あれから1カ月以上経たが、旧J新聞で最後まで頑張ったメンバーらを中心にした社員が少数精鋭で頑張っているようだ。なんとか経営が軌道に乗ってほしいなあと陰ながらエールを送りたい。ただ、それとは別に僕の極私的な総括は、断片的ながらもきちんと続けたい。
 以下は、退社時にお世話になったIさんに送った手紙の一部です。やや情緒的すぎるきらいはありますが、当時の僕の心情を素直に反映したものです。これも総括の手がかりとしたいと考え、公表します。(登場する名前は手紙では実名です)
      ◇
 だれしも身過ぎ世過ぎは無視できません。今後、わが家は僕の失職によって猛烈な飢餓感にさらされるかもしれません。でも、それぐらいで吹き飛ぶような家庭なら吹き飛んでしまう運命なのだとも言えます。重い障害のある子どもを抱えたときから、世間の常識の基準に合わせた生き方では生活が立ち行かなることは自明でしたから、私たち夫婦は今さら慌てるものではありません。
 それに、自分に関して言えば今さら、かっこよく辞めるつもりも、いたずらに混乱を惹起させるつもりもありません。この期に及んで持ち場を去る者が何を言おうとも、落伍者の泣き言ぐらいにしか響かないだろうと思います。でも、どんな組織でも脱落していく人間は自分たちを映す鏡とすべきだと、僕はかつての政治運動の内ゲバ経験から学びました。政治や宗教に凝り固まった人間は箸にも棒にもかからないのが世間の相場ですが、そうした部類の人間の一人だとしても、組織の自己点検と内省的な視点は大事にしてきたつもりです。
 ある種のないものねだりだったかもしれませんが、僕の構想としては新聞人として尊敬するIさんに総合的なプロデューサーというかアドバイザーのような立場になってもらい、先に辞めて先輩地方紙に移ったOさんを局長に据え、記者として県内でも3本指に入る、力量のあるSさんを報道部長にして、僕が2人を補佐するディレクター役に徹してなんとか下支えできれば、質的にはI新聞にはとても及ばないとしても、何とかこれに伍する新聞を作れるのではと、昨年の今ごろは考えていました。みんなかなり疲弊しているけれど、それなら敗北必至でも最後の闘いに打って出てもいいかな、と思っていました。
 いずれにしろ、僕が考えるJ新聞はもうありません。伽藍や器が残っても、肝心なJ的なるものの精神のリレーがなされなければ意味をなしません。人は足りなければいくらでも補充できるし、入れ替えは出来ても、根本にある精神的なものが受け継がれないような新聞は、やがては潰えてしまうか、これに替わる悲喜劇が訪れるように思います。今後、みんなの経営努力によりなんとか存在することが許されたとしても、いやしくも社会の公器である新聞です。地域における社会悪のような存在にだけにはなってほしくないなあ、と願うばかりです。
 改めてIさんには本当に、お世話になりました。もの書きとして影響を受けた文学者や詩人・評論家とは別に、現実の場で薫陶をうけたS新聞の編集局長だったOさん、それにMさんやYさんたちとは違う意味で、Iさんには正当派ジャーナリストとして密かに師と仰ぎ、その生き方や表現外の部分も含めていろんなことを学ばせていただきました。その感謝の気持ちは、とても言葉には尽くせません。本当にありがとうございました。
 今後は子どもと向かい合いながら、できるだけ呼吸するような自然さで生活していきたいと考えています。そして許されるなら、これまでの仕事で積み残してきたテーマや自分がこだわってきた固有のテーマについて、どういう形になるかは別にして「何ごとか」を表現していければと考えています。
2009年3月12日

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3月3日まで「真壁のひなまつり」開催~その2
 引き続き地元で開かれている「真壁のひなまつり」の話題を取り上げる。真壁地区の成功? 事例に味をしめたのか、今では県内のあちこちでサル真似よろしくひな祭りイベントが盛んだ。それぞれの個性を発揮しようと努力しているようだが、真壁に関して言うなら、12年も続いているとこれまで見えなかったいろんな課題が見えてきた。当然ながら地元の人たちにも、その立場によって複雑な思いが芽生えているようだ。
 実は僕は5、6年前に真壁のひなまつりがブレークして一躍メディアで注目されるようになった時期に、ある旅行雑誌の依頼を受けて「地域おこしの見本」として真壁のひなまつりイベントについて、以下のような文章を掲載した。

     ◇◇◇

真壁のひな祭り
【見出し】5000万人観光立県の手本/ひなまつりでブレークした蔵の街/茨城県桜川市真壁町

 つくばエクスプレス(TX)の開通で、首都圏の日帰り観光スポットとして人気を集める関東の紫峰・筑波山。その北側山ろくに桜川市真壁町がある。この町に入る幹線道路の案内看板が面白い。「桜川市」よりも「真壁町」の方がだんぜん大きいのだ。合併で誕生した新市より、町の存在をアピールする看板の存在は、同町の独立心の強さや自信をうかがわせる。というのも、合併前から観光面で目覚しい実績を上げ、県内外から大きく注目されているからだ。
 同町は、筑波山に連なる加波山の御影石を利用した石材加工業と農業のまち。バブル期には石磨きに転業する農家が相次いだ。しかし、バブル経済の崩壊で地場の石材業が一挙に疲弊、夜逃げや倒産が相次いだ。町全体が活力を失うなか、「厳冬期に来てくれる人たちをもてなそう」と、平成十四年に地元有志が発案したアイデアが町を再生させた。古い町並みを目当てに細々と観光客は訪れていたが、「蔵の街・真壁のひなまつり」で一気にブレイクしたのだ。
 歴史をひもとけば、戦国大名・真壁氏の居城(国指定史跡)があり、その城下町だった市街地には約四百年前の町割りが今も残り、古い蔵や門など百四棟が国の登録文化財に指定されている。官民挙げて、伝統的建造物を生かしたまちづくりが進められている。
 二月のひな祭りイベントには一カ月で旧町人口の五倍に当たる約十万人が市外、県外から訪れる。地元商工会は名物料理として「真壁すいとん」を開発するなど、通年型の観光振興計画に力を入れる。人形浄瑠璃、藍染め、地元習俗の保存の「まちごとミュージアム」運動と連動し、ソフト・ハード両面から新たなまちおこしが進められている。
 県もテコ入れし、秋季にはTXつくば駅からの直行便を土日祝日に運行した。年間観光客を四千三百万人から五千万人にする「観光立県」を目指し、従来の袋田の滝など県北観光から、県南の筑波山周辺観光に期待する。
 その手本となる真壁町だが、「まちおこしの目的は、より多くの来訪者を招き入れることではない。そこに住む住民が地元に愛着や誇りを持ち、まちおこしを通して心豊かに感じられること」(商工会役員)。国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を目指しながらも、地元は冷静だ。

     ◇◇◇

 気恥ずかしいほど地元のイベントを手放しで礼賛した文章だが、では今はどうなっているのだろうか? 今年は記録的な大雪の影響などで客足は例年よりも少ないようだ。しかし、好天に恵まれた土日などは狭い路地が観光客であふれている。見たところ、リピーターも多く、若いカップルや若い女性のグループも比較的多く見かける。
 大震災を経たとはいえ、古い町並みと雛飾りのドッキングは根強い人気を誇っている。その意味では一過性のブームではなく、すっかり「真壁ファン」が定着したと見ていいだろう。もともと人口2万人弱の小さな町に1カ月の間に10万人も訪れるのが異常なのだと思う。ここにきて集客力も分相応の水準に落ち着きつつあるのかもしれない。
 口の悪い地元の人たちは「もともと真壁は観光地ではない。むしろ結城市などの方が格が上だ。たまたま地元の商家が小金持ちだったから、明治や大正、昭和初期の古い土蔵が残ったにすぎない。そこに雛人形を飾るというアイデアが、たまたま当たっただけだろう」と手厳しい。
 別な地元住人は「おもてなしがブームになっているけど、どうしても真壁に来る人を俺たちがもてなさなきゃならないのか。通行マナーの悪い観光客が増え、期間中は道いっぱいに人があふれて街中を車で走るのも一苦労だ」「回を数えるごとに来客者の質が悪くなっている。店に飾ってあるものを平気で持っていく不心得者が増えた」などの悲しい声も聞こえる。
 真壁のひなまつりは1日千~2千円程度で楽しめる観光スポットというのも人気らしいが、ある友人は「地元に金を落としてくれるというけど、微々たる金額だろう。いったい誰がその恩恵を受けているんだろうか? 財布のひもが固い中高年の女性たちならなおさらだ。第1級の観光地である日光や箱根に行けないような人たちには、ありがたい近場の観光スポットなんだろうな」と、やや怒りを感じさせる意見を交えて変化を分析してくれた。
 生産労働人口が減少し、超高齢化の成熟社会を迎えて、地方自治体も経済疲弊で青息吐息の現実だけに、新たな地域おこし・まちおこし策として、どこもかしこもアイデアを絞って交流人口の増加に期待を掛ける。だが、真壁地区では中心市街の住民も「1カ月の期間限定だから日中の喧騒も我慢できるけど、これが1年続いたらたまんない」「中心部に住むのは年寄りばかり。若い人はつくば市などに出ていってしまい、土蔵の修復などはとても無理。まちおこしと言うなら行政が予算を組んでやってほしい」というリアルな声もある。
 個人的には真壁で一番見たいと思った江戸、明治、昭和の価値ある雛人形を飾っていた地元の名士(この人はみんなが無関心だった頃から、地元の町並み保存運動を引っ張ってきた)が亡くなり、この家の雛飾りが再開されないのが残念だ。また初期には見られた、古い土蔵の門からのぞく時代ものの雛人形の景観が、当家の事情はよく分からないが、もはや楽しめないのも個人的にひなまつりイベントの魅力を失わせた。
 ともすると公共交通機関が何もないために「陸の孤島」などと自嘲気味にささやかれている真壁地区。頼みの地場産業の石材業も中国産石材の隆盛で復活の兆しは見えない。そうした逆風の環境下で、金を掛けないで独自のアイデアでまちおこしを成功させた意義は大きいと思う。確かに「真壁のひなまつり」は地元住民に誇りと自信を取り戻した。でも、熱し易くさめ易いのはこの国の国民性だけに、転換期を迎えた「ひなまつり」の有り方をもう一度原点から問い直すことも重要だと思う。

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3月3日まで「真壁のひなまつり」開催~その1
 桜川市真壁地区の中心市街地で3月3日まで、冬季の人気イベント「真壁のひなまつり~和の風第十二章」が開かれている。古い町並みと調和した各種のひな飾りと、住民の素朴なもてなしの姿勢が支持され、今年も土日を中心に大勢の観光客でにぎわっている。
 真壁地区は、中世・真壁氏の居城があった城下町。江戸時代には笠間藩の陣屋が置かれ、明治時代には商業の在郷町として栄えた。約400年前の町割り(街並み)がほぼ残り、蔵や門など104棟が国登録文化財となっている。残念ながら、その多くが2011年の3・11東日本大震災で被害を受け、現在も修理、修復作業が続いている。
 ひなまつりは、2003年に地元有志らが「寒中にもかかわらず観光に訪れてくれる人たちをもてなそう」と、各家庭に“眠る”ひな人形を玄関口などに並べる「出会いともてなし」の交流イベントとしてスタートした。観光地ずれしていない地元の人たちとの語り合いなどが幅広い女性ファンを生み、半日程度で回れる地理条件などから中高年層にも支持され、次第に訪れる人たちが増えた。リピーターが多いのも特徴となっている。
 行政の下支えはあるが、主催はあくまで一般住民。自分たちが来場者との出会いや交流を楽しむ住民主導の姿勢を崩さず、ひなまつりを通して「和の文化」や「人の和」が広がってほしいと取り組んでいる。
 今年も中心市街地の見世蔵や商店街の店舗、旧家などに江戸・明治・大正・昭和・平成と、各時代のひな人形が飾られる。最近は布のつるしびなや「蔵飾り」「座敷びな」など展示に工夫を凝らし、アート的な要素が加わっている。各所に専用マップを置いて案内を助けるほか、食事環境も改善されて名物の「すいとん」をメニューに加えた飲食店が増え、手打ちそばの実演・販売も人気。問い合わせは、市商工観光課(電話0296・55・1111)まで。

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ある小規模地方紙の廃刊について思うこと~極私的総括5
 この間、ずいぶんと思い悩んでしまった。本ブログで断片的に掲載している、自分がお世話になった小規模地方紙J新聞の廃刊に関する極私的総括を続けるべきかどうか、についてである。僕はもうJ新聞は歴史的にバッテンを付けられたと考えていたので、復活の動きなどまったく予想していなかった。いや、正確には復活ではなく新たな衣をまとっての再スタートのようだが、作り手のほとんどは逆境にもかかわらず最後まで頑張ったJ新聞の元社員たちなので、何らかの形でマイナスの影響要因になったら困るなあ、と連載を続けるべきかどうか逡巡していた。
 何しろ、極私的な総括とはいえ、注目? される新たなJ新聞の再出発である。経営陣が一新され、新聞の形式も従来とは大きく異なる。詳しいことは分からないが、編集方針も立ち位置も違うようだ。新たな経営者が得意分野としているネット販売とも連動し、大きな「売り」にするらしい。その一方でJ新聞の題字を踏襲しているし、広告・販売の営業スタイルも元J紙方式を踏襲しているとも漏れ聞く(担当者は同じだから仕方ないか)。だから僕としては、結果的に新たなJ新聞の船出に波風を立てるのは本位ではない。できれば(自分の生活や仕事環境が許すなら)背後から支援したいとも考えている。
 そのように随分と悩み抜いた結果、僕は発想をプラス思考に変えることにした。僕の私的総括がもし何らかの形で新J新聞の反面教師の材料となるなら、それはそれで連載することに意義があるのではないか、と。「新しい酒は新しい革袋に盛る」べきだし、そのためにも時代から無効を告知された、零細地方新聞のカビの生えた古い経営理念は潰える運命にあるべきだと、そう考えた。ですから今後も、断片的ながら本連載を触れて続けることにします。
      
 振り返ると僕は奇しくも、その存在の在り方において大きな自己矛盾を内包する今はなきS新聞とJ新聞という極めてユニークな地方の零細新聞に在籍することで、表現者としての自分を高めてきたとの自負がある。改めて冷静・冷徹に自分の足下を振り返ってみると、やはり両新聞とも本質は単なる茨城県内の「地域新聞(紙)」だったと思う。いや、地域紙としてさえも自立できなかった、極めて中途半端な日刊新聞だと総括している。誤解を恐れずに言うなら、J新聞が自立できる可能性や、その方途、タイミングなど、もはや遠い過去の記憶の中にしかないとも言える。ここまできた経済疲弊は、小規模地方紙を存在させる余裕ある要素をすっかり失ってしまった。
 だからS新聞もJ新聞も、もともと新聞としての自立を目指す基礎部数を確立することができず、はったりとも言える誇張した虚飾に満ちた発行部数と点としてしかない普及状況の中で悪戦苦闘し続けた。その中でもJ新聞はうまくフリーペーパー路線に目を向け、脆弱な本紙体制を補完する機能を確立したものだ、当時はとても感心していたものだった。実を言えばS新聞もJ新聞も収益の3部の1はフリーペーパー(S新聞はY紙系列の無料媒体)便りだったことを考えれば、これしかなかったのかもしれない。
 そういう意味で、J新聞よりも約10年前のS新聞の倒産は「J新聞よ、早く目を覚ませ」という貴重なメッセージ(警告?)に思え、僕は以前にそのS新聞で飯を食わしてもらった恩義もあり、J新聞が2003年に新社として生き残ったことの意味をかみしめ、自分なりに再生に向け努力してきたつもりだった。残念ながら、それも報われることなく終わってしまったが‥。
 既に廃刊に追い込まれた旧J新聞だが、当時は僕は自分の位置(編集局のトップ)から問題的の克服を企図し、自分の内部で可能な限りの改革をまとめつつあった。2008年頃から表面化したJ新聞の経営危機問題で社内の混乱が続いたが、その当時でさえ経営スリム化は成功したのだろうか、との思いは強く僕の中にあった。それによって収益が上がるのならともかく、経営陣の「無駄をなくす」とした効率的経営の取り組みは、J新聞が存在するための潤滑油を根こそぎ奪い、社内にぎくしゃくした関係をもたらし、プラスの方向には作用しているとはないように僕には映ったからだった。
 そうして僕は退社を決意するに至り、最後のメッセージとして、以下のような文章を盛り込んだ手紙を何人かの関係者に送った―。
     
 「新しい酒は新しい皮袋に盛れ!」ではありませんが、古いスタイルの器は潰えていく運命だとするなら、僕はもはやその運命に従うべき段階に達したようです。土浦と水戸という拠点の違いはあっても、J新聞もS新聞(手紙では実名)も地域において異彩を放ったのは1970年半ばごろまでだったような気がします。戦後の混乱期から脱し、高度経済成長が臨界点まで登り詰め、消費型の資本主義が歴史の新段階として立ち現れたとき、あらゆる分野で古い皮袋は新しい皮袋に自己変革を促したと感じています。J新聞やS新聞を取り巻く環境からすれば、比喩的になりますが、選挙(中選挙区制が基盤)がカネになり、なんとか食えた幸福? な時代までだったような気がします。(続く)

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老いてもなお意味や価値を求める社会~新年のごあいさつに代えて
 早くも2014年1月も終盤となってしまいましたが、超マイナーな本ブログにアクセスして頂いている読者の皆様、遅まきながら明けましておめでとうございます。共同主宰者からも機会あるごとにブログ記事の掲載を促されているのですが、なかなかうまくいきません。ご迷惑をお掛けします。いろんな理由がありますが、一番の原因は健康不安と時間のなさです。定期健診でひっかり、少し落ち込んでいます。加えてあれこれ雑事が多く、時間をつくるのがとても下手になりました。
 それに精神的かつ経済的な余裕のなさ、昔は年をとればどっしり腰を落ち着けて、物事に対して悠然と構えるようになると漠然と考えていましたが、そう上手くは問屋が卸しません。そんなに存在感があったとは思えないのですが、親の代のように安定感が持てません。むしろ、だんだんきつくなるなあ、という感じです。正直なところ初発の熱い思いはどこへやら、「ものを書く」ことへのリアリティーが減衰しているのも感じます。
 我が身近な一番の批判者は、傍らで「自分で自分を追い込んでいるんじゃないの」「なにをそんなにあくせくしているの」「もっとゆったりと構えて毎日を過ごせばいいだけの話じゃない」と愛のある? 厳しい正鵠を射る言葉の石礫を投げつけてくれます。確かに世の中なんて構え方ひとつです。当方の人生が、障害のある子供と毎日を生きることを運命づけられているので、そうした生き方は自明のはずなのですが‥。いちいち細かなことを気にしていたら、個々の生活場面は立ち行かなくなります。
 ですから、「いい加減」こそ我が人生の最良の指針と半ば開き直っているのですが、これをブログ記事を書けないことの正当化の理由とすることにはできません。みんな同じ時間と空間を共有しているのであり、それぞれに暮らしごとがあります。だれでも忙しく、時間がないのであり、よく言われるように時間はつくるものだと考えることにします。
 で、 今年は「馬」年(干支では「午」)です。大草原を疾駆(しっく)する駿馬(しゅんめ)ように駆け抜けたいとは思いますが、足元の現実はそれを許しません。「もう年だから」と年齢を言い訳にしたくはないのですが、ご多分に漏れず身も心くたびれてきて、思うに任せないのが足元の現実です。無意識に「無理はすまい」「年相応に生きよう」という自己防衛本能が働いてしまいます。
 どうも日本は老いてもなお目標を決め、人生を充実していなくてはいけない、という脅迫観念が強い社会です。死ぬまで「充実」や「意味」を求め、「前向き」に生きることが価値とされます。死ぬまで自然年齢に抗うことを運命づけられるのはつらいものです。政治も経済も文化も、何もかもが余裕を失っているこの国で、依存症を病む人はもしかしたら気楽な人生を手にしているのかもしれません。だって「明日のことは考えず、今日一日を生き抜く」ことがすべてなのですから。当方もこれに学び、せめて残された余生は自然体で気楽に、前述したように「いい加減に生きる」、つまり「ちょうど良い人生の振幅で生きる」という中庸の精神を体現しながら、ふらつきながらも足元の現実を生き抜こうと思います。のっけから言い訳のブログになってしまいました。貴重な読者の皆さま、今年も宜しくお願いします。

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あけましておめでとうござます
進藤龍也牧師が講演/身振りを交えながら熱弁振るう
 鹿嶋市にある薬物・アルコール・ギャンブル依存症の民間リハビリ&就労支援施設、NPO法人潮騒ジョブトレーニングセンター8周年フォーラム(平成25年11月17 日、鹿嶋勤労文化会館)のメイン講演である、進藤龍也牧師の講演について少し詳しく記します。
          
 進藤牧師は講演の冒頭で「本物の敗北って『倒れたままでもいいや』と思うこと。いつでもどこでもやり直せる」と切りだした上で「その心はイエスキリスト。イエスキリストを感じました」と語りました。刑務所服役中に、家族はもとより所属していた暴力団からも見放され「底付き」状態となり「神しか頼れなかった」と振り返りました。
 進藤牧師と潮騒JTCの栗原豊施設長は同じ埼玉県出身で所属していた暴力団組織が同じ、という共通点があり、「ヤクザをしてて、(金などを)集めるだけが人生だった。今の私は与える人生になった。与える人生こそ人生を豊かにする」と、栗原施設長同様にヤクザ稼業から180度転換したことを力説しました。
 また、「依存者だろうが、シャブ中、ヤクザでも立ち直ったら誰かの希望なる」と述べ上で「依存者でも大丈夫。仕事ができる、できますよ」と応援メッセージを送りました。進藤牧師の教会では「納税者を目指す」を目標に、出所した受刑者など教会を頼ってきた人が、教会を住所して就職活動をして自立してもらう仕組みなどを説明しました。
 進藤牧師自身も収入が無く病気などの理由で約1年数カ月ほど生活保護を受給し「『ずっと生活保護をもらおうかな』と思った」との心境を明かしながらも「人々を社会復帰させている私が受給したままでいいのか」と思いなおし、一定のメドが経った時点で生活保護を終了させ「生活保護を切ってから道が開けた」と語りましたが、「生活保護を必要な人は受けて。しかし働ける人は働いてください」と、一部の“生活保護バッシング”とは一線を画しました。
 また、教会を設立した当初は「マル暴」(暴力団担当の刑事)から呼び出しを受けましたが、今では警察が問題を起こした教会の入寮者に対し「お前、進藤先生に済まないと思わないのか」と説教するほど、警察から認知されるまでになり、これまで元警察署長や厚生省の役人など「お前らに何が分かんのかよ」と受刑者から反発を受けるような人間の講演がメインだった刑務所の講演会にも、「元ヤクザの話なら(受刑者も)聞く」ということで呼ばれるようになりました。
 キリスト教と出会った刑務所でのエピソードで、「ヤクザの世界と刑務所しか知らない」進藤牧師は暴力団や家族からも“破門”された中、差し入れ聖書を読み、「私は悪人が死ぬのを喜ばない。悪から立ち直るのを喜ぶ」との一節を読み「理屈じゃなく開眼した」と目覚め、信仰の世界へと入ったと述べました。
 締めくくりで進藤牧師は「いろんなところでいろんな方法がある。私にできるのとは何でもしたいと思う」と、依存者の社会復帰を支援する意向を示しました。

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【進藤牧師プロフィール】1970年、埼玉県川口市生まれ。高校を中退後、18歳でヤクザにスカウトされ暴力団の組員に。組長代行となるが覚醒剤が原因で降格。3度目の服役中に差し入れの聖書を読み回心。出所後洗礼を受け神学校に入学し、卒業と同時に開拓伝道を開始。現在は川口市にある「罪人の友」主イエス・キリスト教会の牧師として各地の受刑者との文通や面会を通じて福音を伝えている。著書に「人はかならず、やり直せる」(中経出版)「未来はだれでも変えられる」(学研パブリッシング)「立ち上がる力」(いのちのことば社)等。
潮騒ジョブトレーニングセンター開設8周年フォーラム開く/首都圏ダルク連合のエイサー演舞で盛り上がる/ゲストの進藤牧師、近藤氏らも熱弁振るう
 「継続…そして未来へ」をテーマに、潮騒ジョブトレーニングセンター(JTC)の8周年フォーラムが11月17日、鹿嶋市宮中の鹿嶋勤労文化会館で開かれ、延べ約400人以上が来場した。潮騒JTCは鹿嶋市にある薬物・アルコール・ギャンブル依存症施設の民間リハビリ施設。全国に70カ所あるダルク(薬物依存民間リハビリセンター)の関連施設で、フォーラムでは潮騒が取り組む農業プロジェクトの報告や、画像資料を交えた内容の濃い講演、依存症回復の原点やビジョンを示唆する講演など、実り多いものとなった。潮騒の取り組み間もないエイサー(琉球太鼓)の演舞は、経験豊富な首都圏の先輩ダルクの面々が友情応援で盛り上げ、圧巻の舞台を実現した。参加者からは「余裕あるプログラム構成でよかった」「潮騒の着実な歩みがうかがえた」など一定の評価を得た。


 ■三重ダルク施設長が「東紀州プロジェクト」紹介
 今回のフォーラムは、これまで会場確保が難しかった鹿嶋市内中心部における初めての開催で、会場の定員規模が大きく、一般参加者の確保が課題となった。事前PRに力を入れたものの、観客動員力では潮騒の力量を改めて自覚させられた。それでも内容面では充実したものとなり、栗原豊施設長のクリーン10年を祝う意味合いを込め、カラフルな衣装が織り成すダルクの特徴あるエイサー演舞で、これまでにない盛り上がりとなった。
 プログラムは、午前中の「ファイザープロジェクトフォーラム」の部で、現在取り組んでいる潮騒ファイザープロジェクト報告が行われ、リーダーのヒトシさんから青パパイヤ栽培など2年間に及ぶ農業プロジェクトの活動その成果と課題などが示されました。このプログラムは大手製薬会社のファイザー社の助成を受け、前年から取り組まれている。
 この日はまず、三重ダルク(三重県津市)の市川岳仁施設長が基調講演し、現在取り組んでいる「東紀州プロジェクト」が紹介され、みかん畑での軽作業や弁当店の運営などが説明された。市川施設長は「助けてもらうだけでなく『自分も助ける』。『自分が役に立つ』という感覚が役立つ」と、依存症者の就労支援の意義を強調。無理して社会の基準に合わせることやダルクの中に“障害者枠”を作る動きに警鐘を鳴らし、「依存症の括りにこだわらない発想の柔軟さを」と広い視野での対応を求めました。
 体験発表に立った潮騒JTCのユウさんは、約15年にわたって薬物を使い続けながら仕事をしてきた過去を述べ「シラフで仕事を続ける自信が無かった。だから薬物を使った」と振り返り、潮騒農業自然隊メンバーに参加しての2年間について「やりがいを持って取り組んでいる」と前向きの姿勢を見せた。
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 ■進藤牧師が熱のこもった講演で「やり直しの人生」を示唆
 午後の「潮騒JTC8周年フォーラム」では、冒頭に仲間のエンさんが制作した「潮騒の仲間たち」と題したスライドを上映、日々の様子が紹介されました。続くエイサーの舞台では、潮騒の他に横浜、川崎、市川、千葉、藤岡の首都圏のダルクメンバー約40人がステージに上がり、エイサー演舞を披露した。
 各ダルクでは回復活動としてエイサーが定着しているが、この日は「ダルク連合」による珍しいエイサーの演舞で会場と一体のステージを実現。経験豊かな川崎ダルクのメンバーらがリーダーシップを発揮して、経験の浅い潮騒エイサー隊を引っ張った。参加者もかつてない勢いと迫力に圧倒された様子で、感動のステージとなりました。
 この後、今回のフォーラムのメーンステージであるゲストスピーカーの「罪人(つみびと)の友」主イエス・キリスト教会(埼玉県川口市)の進藤龍也牧師が登壇。進藤牧師は身振りを交えながらの熱い講演で聴衆を引き付け、「本物の敗北って『倒れたままでいいや』と思うこと。人はいつでもどこでもやり直せる」と述べた。
 来場者との質疑応答で進藤牧師は「現代病は『自分を愛せない』こと。罪を犯したからこそ神のところに行かなければならない。自分自身が愛せないから、他人も愛せない」と答えていた。
 体験発表では、潮騒JTC入寮者のキクさん、同じく入寮者で栗原施設長とは約40年のつきあいがあるテイさん、入寮者のサユリさんの話があった。挨拶に立った横浜ダルク施設長の坪倉洋一さんは、後発の潮騒が孤立とハンディを負った中で歩みを続けたことが、狭い感情対立や反発を乗り越え、より包括的で高い回復のポジションに立てている、と評価を加えた。
 日本ダルク代表の近藤恒夫さんは「自分のため、ダルクのため、だけではなく、国のため、社会のため、広い視点で依存症の回復を支援しよう」と訴え、ダルクの目標の“命のリレー”を原点に据えてより高い回復のステージに向けたビジョンを示した。
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 ■「世界一かわいい娘たちのためでもやめられなかった」と栗原施設長
 終盤には“サプライズ演出”として栗原施設長夫妻の子供でありながら、潮騒で依存症からの回復を目指す仲間でもある、スタッフのヒトシさん、マコトさん、それに栗原施設長をダルクにつなげたNAメンバーで姪のロバさんから、栗原夫妻に花束贈呈の一幕があった。
 栗原施設長は謝辞で「こんなヤクザでアル中でポン中だった人間が、感謝される立場に立つことが涙が出ます」と感謝の意を示した上で「今では2人の息子に感謝されています。息子を救うことができた」と述べた。一方で、過去に崩壊させた家族にも想いを馳せ、実子である2人の娘との苦い過去に触れ、「世界一かわいい娘たちのためでも覚醒剤はやめられなかった」「だから依存症は愛情では治せない。『愛情で治す』はかえって依存症を悪化させてしまう」と訴えた。その上で「私の中に悪魔が棲んでいる。サタンに負けないようクリーンを保っていきたい」と、クリーン10年の節目に決意を新たにした。
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以下は進藤牧師の講演要旨―。
 進藤牧師は冒頭「本物の敗北って『倒れたままでもいいや』と思うこと。いつでもどこでもやり直せる」と切りだした上で「その心はイエスキリスト。イエスキリストを感じました」と語った。刑務所服役中に、家族はもとより所属していた暴力団からも見放され「底付き」状態となり「神しか頼れなかった」と振り返った。
 進藤牧師と栗原施設長は同じ埼玉県出身で所属していた暴力団組織が同じという共通点があり、「ヤクザをしてて、(金などを)集めるだけが人生だった。今の私は与える人生になった。与える人生こそ人生を豊かにする」と、栗原施設長同様にヤクザ稼業から180度転換したことを力説した。
 また、「依存者だろうが、シャブ中、ヤクザでも立ち直ったら誰かの希望なる」と述べ上で「依存者でも大丈夫。仕事ができる、できますよ」と応援メッセージを送った。進藤牧師の教会では「納税者を目指す」を目標に、出所した受刑者など教会を頼ってきた人が、教会を住所して就職活動をして自立してもらう仕組みなどを説明した。
 進藤牧師自身も収入が無く病気などの理由で約1年数カ月ほど生活保護を受給し「『ずっと生活保護をもらおうかな』と思った」との心境を明かしながらも「人々を社会復帰させている私が受給したままでいいのか」と思い直し、一定のメドが経った時点で生活保護を終了させ「生活保護を切ってから道が開けた」と語った。ただ、「生活保護を必要な人は受けて。しかし働ける人は働いてください」と、一部の“生活保護バッシング”とは一線を画した。
 また、教会を設立した当初は「マル暴」(暴力団担当の刑事)から呼び出しを受けたが、今では警察が問題を起こした教会の入寮者に対し「お前、進藤先生に済まないと思わないのか」と説教するほど、警察から認知されるまでになり、これまで元警察署長や厚生省の役人など「お前らに何が分かんのかよ」と受刑者から反発を受けるような人間の講演がメインだった刑務所の講演会にも、「元ヤクザの話なら(受刑者も)聞く」ということで呼ばれるようになった、とした。
 キリスト教と出会った刑務所でのエピソードでは、「ヤクザの世界と刑務所しか知らない」進藤牧師は暴力団や家族からも“破門”された中、差し入れ聖書を読み、「私は悪人が死ぬのを喜ばない。悪から立ち直るのを喜ぶ」との一節を読み「理屈じゃなく開眼した」と目覚め、信仰の世界へと入ったと述べた。
 締めくくりで進藤牧師は「いろんなところでいろんな方法がある。私にできることは何でもしたいと思う」と、依存者の社会復帰を支援する意向を示した。


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ある小規模地方紙の廃刊について思うこと~極私的総括4
 J新聞は本当に県南、土浦地域において存立基盤を持ち、評価されてきたのだろうかという疑問は僕の中にわだかまりとして、ずっとあった。(当時、全国の小規模、零細地方紙でつくるマイナーな)郷土紙連合加盟紙の中で、J新聞が一番発行部数の多い数字を恥ずかしげもなく掲げることにいつのまにか無神経になりながらも、せめて数万部なら矛盾も少ないのにと思い当たる場面が何度かあった。
 曲がりなりにも日刊新聞の持つ幻想力にあぐらをかき、「真実を報道する」新聞が実体としての発行部数に目をつむって自分たちを虚飾でもって塗り固め、「読者や市民の知る権利に応える」と開き直ってきた長年のつけが、メーンバンクの撤退による混乱で一挙に吹き出たように思った。等身大の経営とひとことで言うのは簡単だが、そうした謙虚な姿勢をもった新聞づくりで3度目の出直しを図れないないかと自問し、思い切って新年号で独自の企画を提案した。
 それは明るいビジョンの描けない先行き不安な時代に逆に、反面教師というか世間から距離を置いて生きている二人の対談を実現させてみたいという、個人的に温めていた企画だった。具体的には茨城町の涸沼湖畔に住む自由詩人、白田美鶴さんと、八郷の筑波山麓に住む反骨の書家、北村馬骨さんの対談を見開き2ページで掲載したことだった。僕は元旦の紙面で恒例となっている橋本県知事らのインタビューよりも力を入れた。恐らく、あの当時でさえJ新聞はそんなに長くないと考えていたのだと思う。とにかくやれることはやっておこうという切迫感もあった。
 翻って考えると、自分自身は「もの書き」としては弱い資質なのだと思う。僕の中には「ものを書く」という行為がとても気恥ずかしく、しかも人間的にはどこか余計な営みであるという思いがある。新聞は情報を伝えるコミュニケーション言語を本質としながらも、一方の極には文学や芸術と同じように自己を表出する側面が宿命としてあり、それだけに書きっぱなしは許されず、自己責任を伴う重い表現行為なのだということに自戒を込めて仕事をしてきたつもりだ。
 もちろん、新聞という形で自分の記事が表現として(未熟だとしても)完結してあることには、ある種の達成感や満足感が得られたことも疑いない。でも、僕にはそれらを差し引いても、自分の原点において、どこかものを書くことの「気恥ずかしさ」と「怖さ」はぬぐえなかった。そうした資質面での弱さを踏まえながらも、報道部記者たちの懇願を受けて再度、編集局長を引き受けてからは、まるで脅迫神経症のように毎日の新聞づくりに神経をすり減らした。
 なんとか自分の色合いを出しながらも、これでいいのだろうかと悩む毎日で、J紙の置かれた条件下で、完璧を期すことなど不可能だとは分かっていても、できるだけミスをなくそうと紙面への気配りや目配りをしてきたつもりだった。しかし、もはや現実の仕事量は僕の能力などを超えて既に物理的な面で限界を超えており、むしろ逆に自分の管理能力や事務作業における能力のなさを思い知らされるばかりの日々だった。
 自分の無力を認めることは、薬物依存症なら回復のスタートになるが、新聞づくりには言い訳にもならない。商品価値のない紙面を読者に提供することは申し訳ないと、毎日プレッシャーに押しつぶされそうで、翌朝にミスを見つけたりすると暗澹たる気持ちになった。一方で、営業実績を少しでも伸ばしたいと下支えする仕事も引き受け、営業サイドからの期待を感じるだけに、ない知恵を絞って全力投球せざるを得なくなった。安請け合いではないが、要は力もないのにあれもこれも過剰な責任感から引き受けてしまい、身動きが出来なくなった結果、自分自身で幕引きを図らなければならなくなったとも言えた。
 おまけにその頃、家庭の事情ものっぴきならない状況に追い込まれ、長男の自傷行為と破壊行為に、もはや妻だけの力では抑えが効かなくなり、養護学校にいる間はともかく、帰宅してからの時間は僕がいないとどうしょうもない状況になっていた。施設に預けようにも激しい自傷行為に「何かあったときに責任がもてない」と断られ、この後は「薬漬け」にするしかない段階に立ち至ってしまい、とても思い悩んだ。それだけはしのびないので新たな方途を模索したが、うまくいかなかった。
 おまけに妻の糖尿病悪化に加え、僕の糖尿病も数値が悪くなり、この先の健康維持を無視できなくなったことも無視できなかった。そうした事情から、もはや精神的も肉体的にも限界と考え、僕はJ新聞における自分の仕事の幕引きの時期と決断した。でも、こうした自分自身の内面の落ち込みや家庭の事情はともかく、J新聞を取り巻く現実に対して、本当はそんなに真剣に考える必要はなかったのかもしれない。ナイーブすぎるという批判もあるだろう。そんなことをいちいち気にしていたら、新聞経営など成り立たないとの立場論もあると思う。実際、僕が辞表を出した後もJ新聞は結構しぶとく発行され続けたのだから。
 ただ、僕は経営戦略とは別な意味で、新聞が新聞として地域に信頼され、自立するという立場に立つならば、はったりや脅し、社主の思惑を背景に特定の利害を優先した記事を得意げにふりかざす心情には付いて行けなかった。新聞づくりの最低限の倫理というか、矜持を保てなくなったら、潔くその場から去ろうとは以前から決めていたことだった。

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自己車両の汚れ防止に落とされたツバメの巣。

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ある小規模地方紙の廃刊について思うこと~極私的総括3
 零細地方紙にもかかわらず、半世紀以上も県南・土浦の地に存在したJ新聞が、ついに力尽きて早くも2カ月半が過ぎた。思えば僕が、この新聞社に世話になろうと思ったきっかけは、当時はまだ社主だったIさんがライフワークとする霞ヶ浦問題への取り組みに触発されてのことだった。
 それ以前僕は、やはり当時、水戸市中心部にあった異色のS新聞(ここも既に廃刊)に在籍していた。S新聞は戦後間もなく、J新聞よりやや遅れて全逓労組を中心にしたレッドパージ組が創刊した新聞で、共産党にシンパシーを抱く傾向の社員たちが多かった。いつか機会があれば、この新聞についても書きたいが僕の体質にはとても合っていた。とにかく「縛り」が少なく、比較的、自由に書きたいことを書かせてくれた。でもS新聞もJ新聞に先んじる形で経営状況が厳しなり余力や余裕を持てなくなっていた。
 それに従い、僕もだんだんと居場所がなくなり、窮屈な思いを抱くようになった。そんな折、環境保護のキャンペーン記事だったのかもしれないが、僕が涸沼(茨城町と鉾田市の一部にまたがる汽水湖)の浄化問題の連載に取り組むことになった。その頃J新聞は、Iさんが盛んにライフワークとする霞ヶ浦問題に取り組んでいた。
 地の利を生かした細かな現地取材と豊富なデータ取材と適確な分析力、何よりも幅広い人脈に支えられたネットワークには脱帽だった。僕の連載記事など、とてもIさんの足下にも及ばない、もの真似にもならないレベルだったが、涸沼の浄化問題をテーマに連載企画に取り組んだことで、Iさんの優れた仕事ぶりに触れ、とても刺激を受けた。
 「茨城にもこんな気骨のある腰の強いジャーナリストがいるんだ」と思い、当時S新聞で「―は仕事ができると思い上がって、好きな記事ばかり書いている。いい気なもんだ」「おまえもM(この人もS新聞からJ新聞に移り、編集局長を務めた)と同じで、S新聞を利用するだけの存在だな」という陰口や批判にさらされ、ひどく居心地が悪くなっていたので、思い切ってIさんの下で世話になろうと思った経緯がある。それで思い切って1996(平成8)年秋に、J新聞に移ったのだった。
 それに個人的な事情もあった。当時、僕は水戸市内の実家に住んでいたが、既に両親は他界しており、結婚した相手の両親が高齢だったので、県西地域のまちにあるカミさんの実家に移ろうと決意しタイミングを見計らっていた。子供も小さかったが、たまたま水戸市の那珂川べりのアパートに住んでいた知人が、洪水対策で集団移転を求められて新たに家を探していたこともあり、僕の実家を使ってもらうことになったのだった。
 僕の場合、重いダウン症の長男を抱えていることからカミさんだけでは立ち行かない場面が数多い。思いがけないトラブルやリスクが多いので勤務条件にもある程度、「家庭の事情」を配慮をしてもらわなくてはならない。それに一家で県西のカミさんの実家のあるM町に移住した場合、水戸市のS新聞に毎日、車で通勤するのは実質的に困難だった。また、S新聞ではそうした僕の個人的な事情で勤務先を県西支局に移すこともままならなかったので、J新聞への転職は個人的な都合にも合致していた。
 結果的にJ新聞は入社後、僕のそうした家庭の事情にも配慮してくれた。そうしてルーティンを県西地域に限定させてもらったことで、困難な子育てや家庭生活と記者としての取材活動をなんとか両立できる下支えをしてくれた。これには深く感謝している。これにより僕は幸運にも、ライフワークとなるダルクの連載や教育関連企画などにも取り組むことができ、人生における最も働き盛りの40代と50代前半に及ぶ約13年間の記者生活を、J新聞でそれなりに充実した形で過ごすことができた。
 入社当時でさえ小規模零細のJ新聞の経営環境は厳しかったが、なんとか持ちこたえた。まだ地域にもJ新聞を許容する要件があり、経営環境はにっちもさっちもいかないという目詰まりまでにはいっていなかった。しかしここ数年、僕が入社した当時と比べると新聞を取り巻く時代や状況はすっかり変わってしまっていた。
 いつのころからか、この国は頭のてっぺんからつま先までカネが全ての価値観にすっかり汚染されて、曲がりなりにも受け継がれてきた古き良き伝統文化や日本的な道徳や倫理観をすっかり失ってしまったかのようだ。文化だけでなく福祉や教育などもカネになるかどうかの基準でしか根付かないのがこの国の実態だろうから、地方の文化の担い手である小規模地方紙などは、疲弊著しい経済状況にのみこまれるのは時間の問題だったとも言える。
 どんなに高邁な理想を掲げようとも、所詮は廃刊の憂き目にあったJ新聞もS新聞も商業紙であることに変わりはない。曾有の経済危機の中では、それでなくても経済基盤の弱い小規模零細の地方新聞はひとたまりもない。よくJ紙やS紙は体躯が小さいから、それほど影響は大きくない、図体の大きい県紙の方が経営という面からいえばより大変だ、という声を役員側から聞いた。そうかもしれないが、僕は他社の危機を引き合いにして、自分たちの傷の深さを少しでも回避する方便のように思えてならなかった。J新聞に限らず新聞が、ある意味で宿命的に赤字体質をさらけだしてきたことは疑いないが、それを経営面で正当化する心情には違和感を抱く。曲がりなりに60年の歴史を刻んできたのは事実だとしても、本当にJ新聞は県南土浦地域において存立基盤を持ち、評価されてきたのだろうか、という疑問は僕の中にわだかまりとしてあった。(続く)

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第4回リカバリーパレードに潮騒JTCも参加/約400人が東京・新宿の目抜き通りを行進、回復をアピール
 心の病、依存症、生きづらさからなどからの回復を目指す当事者本人と、その家族や友人、支援者、賛同者らが回復の喜びを祝うイベント「第4回リカバリー・パレード『回復の祭典』心の病からの回復~今、ここから~」が9月23日(祝月)、 東京・新宿区で開かれ、各地から約300人が参加しました。鹿嶋市の薬物・アルコール・ギャンブル等依存症の民間回復施設、NPO法人・潮騒ジョブトレーニングセンター(略称・潮騒JTC、栗原豊代表)も第1回から参加し、運営に協力しています。
 東京以外の地方では、昨年から始まった広島が第2回目となり、今年初めてとなった北九州でも同日開催されました。主催者の実行委員会は「リカバリー・パレード『回復の祭典』の目標でもある“いつかは全国各地でこの活動が行われれば”という願いが少しずつだけれど現実になってきています。 この活動の最大のエネルギーは当日、参加してくださる人達や参加できなくても応援 してくださっている人たちです」(ホームページ)と強調しています。
 当日は曇りがちの天候でしたが、雨にたたられずに行進できました。集合会場の新宿中央公園には、潮騒JTCの仲間たちをはじめ、千葉県の館山ダルクや全日本断酒連盟などの各種団体、各種依存症や心の病などから回復した個人や団体などが集まり、それぞれの表現スタイルにこだわりを感じさせました。潮騒ジョブの仲間たちからは「依存症者がこんなに大勢いるとは思わなかった。みんなで新宿をパレードできてよかった」「クリーンタイムに自信を持って歩けたし、楽しく歩けた」との感想が聞かれました。
 パレードは例年通り、回復が可能であることを自分たちの声と顔で社会にアピールするものです。隊列は、第一隊列がコーラス隊や一般参加者、第二隊列が各ダルク(琉球太鼓)やベリーダンス、第三隊列が断酒会や潮騒JTCなどと一般参加者、最後列が撮影を望まない人たちやグループでした。午前11時半ごろに同公園を出発し、潮騒の仲間たちは施設の旗を目印にして、コースとなっている新宿駅南口付近など新宿中心部の街並みを行進しました。仲間たちを含むパレード隊は「飲酒運転撲滅」やパチンコなどのギャンブル依存症の危険などを訴えたほか、ダルクによるエイサー(琉球太鼓)や女性らによるベリーダンスが道行く人々の注目を集めました。

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「潮騒ジョブトレーニングセンター」の旗を持つ仲間たち

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ダルクのエイサー隊とベリーダンサーたち

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潮騒JTCの就労支援事業を掲載~創刊10周年の「ビッグイシュー」日本版
 創刊10周年を迎えたホームレス支援誌「ビッグイシュー」日本版の第222号(9月1日発行)に、鹿嶋市のNPO法人・潮騒ジョブトレーニングセンター(潮騒JTC)に関する記事が掲載されました。ファイザープログラムに取り組む全国の各団体のうちでも評価の高い活動をしているケースを紹介する欄に、見開き2㌻カラーで潮騒JTCが推進しているファイザープロジェクトの概要が、コンパクトな記事にまとめられています。
 ご覧いただければ分かりますが、紙面の中で栗原豊施設長の表情がとても生き生きと捉えられています。プロのカメラマンの腕は言うまでもありませんが、とても古希(70歳)とは思えない若さを感じます。つい10年前まで、覚醒剤とアルコールに蝕まれて社会と刑務所を往復し、前科7犯・通算20年の監獄暮らしを経験してきた人物とは思えません。
 11月17日に鹿嶋勤労文化会館で開く潮騒JTC8周年フォーラムで、ゲストスピーカーを務めていただく元ヤクザのキリスト教牧師、進藤龍也氏が指摘するように「人生はやり直せる」の手本です。栗原施設長が希望に満ちた表情で紙面に登場しているように、依存からの回復は新しい人生の素晴らしさを物語っています。
 潮騒JTCが、他の商業雑誌ではなくビッグイシュー誌に登場したことはとても意義深いものがあります。というのも同誌はダルク(薬物依存症の民間回復施設)と同じ当事者活動によって発行されています。ホームレスに仕事(販売活動)を提供し、自立支援を促すための雑誌です。定価300円のうち160円が販売員の収入になるシステムで、時間はかかっても住居を見つけ、定職に就ける仕組み作りの下支えをしています。
 同誌が、この9月で同誌が10周年を迎えたことは「日本では不可能なビジネスモデル」という常識を覆すもので、社会に一定のインパクトを与える存在になっていることを意味します。生活保護への依存が批判される風潮だけに、自立を志向して10年も地道な活動を続ける努力には頭が下がりますし、潮騒にも大きな励みとなります。
 これまでに販売者となった人は延べ1427人、現役販売者1323人、新しい仕事を見つけて就職した人は162人になるということです。たった30㌻ですが、販売員が誇りをもって売るために「お金を出す価値のある雑誌」として商業誌に劣らないクオリティーが追求されています。
 「ホームレスは救済の対象ではなく、ビジネスの対等なパートナー」との考え方は、潮騒が進めるファイザープロジェクトの就労支援に通じます。社会問題の当事者になった人がその問題解決の担い手になって初めて、その社会問題は解決されるという“セルフヘルプ”理念は、これからの社会の大きなビジョンとなる予感を抱かせます。


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創刊10周年を迎えたホームレス支援誌「ビッグイシュー」日本版の第222号(9月1日発行)


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潮騒JTCに関する記事は28㌻(ファイザープログラム紹介欄)に掲載されています
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